2018年1月4日、星野仙一氏がすい臓がんのため、70歳で亡くなりました。
星野氏は現役時代は中日のエースとして活躍し、通算146勝を挙げました。
引退後は中日、阪神、楽天の3球団で監督を歴任し、リーグ優勝4回、日本一1回。なお3球団をリーグ優勝に導いた監督は、三原脩氏、西本幸雄氏に続いて史上3人目でした。
積極的に若手を抜擢した星野氏
星野氏は監督時代「闘将」と呼ばれ、時には鉄拳制裁も辞さない熱血指導で有名でした。
また、積極的に若手を抜擢し、自分が一度信じた選手はとことん起用するという育成法で、これまで数々の名選手を生み出してきました。
ネット上などでよく言われたように、星野氏が自身が育成した選手のことを「ワシが育てた。」と言ったかどうかは不明ですが 苦笑、今回はこの「ワシが育てた。」名選手たちをご紹介します。
「ワシが育てた。」ですが、星野氏が若手時代に抜擢し一軍の主力として起用した選手ということで、定義はわかりやすく以下の通りにしたいと思います。
●星野監督時代に初の規定打席到達を記録した野手
●星野監督時代に初の規定投球回到達、またはシーズン50試合登板を記録した投手
今回は「ワシが育てた。」野手編です。
「ワシが育てた。」~野手編~Part.1
「ワシが育てた。」主な野手10人の初の規定打席到達を記録した年の成績(上/赤文字)、キャリアハイ(中/CHと表記)、通算成績(下)をご紹介していきます。
なお、初の規定打席到達を記録した年の成績がキャリアハイの場合は、その年の成績(上/赤文字/CHと表記)と通算成績(下)のみを表記します。
彦野利勝(中日)
1988 .273(374-102)15本 47打点 41四死球 OPS.815
1989 .275(454-125)26本 59打点 78四死球 OPS.886(CH)
Total .264(2537-669)85本 340打点
プロ4年間で一軍出場はわずか30試合でしたが、星野氏が監督就任して1年目の1987年に101試合に出場。翌年初の規定打席到達を果たし、一番打者として15本塁打を記録。リーグ優勝に貢献しました。
中村武志(中日)
1989 .270(352-95)*7本 41打点 74四死球 OPS.734
1991 .270(333-90)20本 62打点 25四死球 OPS.805(CH)
Total .242(5705-1380)137本 604打点
星野氏曰く「整理対象選手だった。」中村は、星野氏の監督就任前は一軍出場なし。しかし、中日がリーグ優勝した1988年に98試合に出場し正捕手の座を獲得。翌年初の規定打席到達を記録しました。
立浪和義(中日)
1988 .223(336-*75)*4本 18打点 46四死球 OPS.626
1996 .323(511-165)10本 62打点 71四死球 OPS.802(CH)
Total .285(8716-2480)171本 1037打点
プロ1年目の1988年、前年のベストナイン遊撃手の宇野勝を二塁手に押しやって遊撃手のレギュラーを獲得。打率.223ながら22盗塁を記録し、新人王とゴールデングラブ賞を受賞しました。
大豊泰昭(中日)
1991 .283(396-112)26本 *72打点 60四死球 OPS*.918
1994 .310(477-148)38本 107打点 81四死球 OPS1.004(CH)
Total .266(4097-1089)277本 722打点
1988年ドラフト2位で中日に入団。最初の2年間はともに規定打席未到達ながら、1年目に14本塁打、2年目に20本塁打を記録。3年目の1991年、初の規定打席到達で26本塁打を記録しました。
山崎武司(中日)
1996 .322(453-146)39本 107打点 46四死球 OPS1.007(CH)
Total .257(7148-1834)403本 1205打点
第一次星野政権時代は一軍出場はわずか51試合にとどまりましたが、星野氏が2度目の監督に就任して1年目の1996年に大ブレイク。39本塁打を記録し、初の本塁打王を獲得しました。
「ワシが育てた。」~野手編~Part.2
井上一樹(中日)
1999 .296(450-133)10本 65打点 45四死球 OPS.781(CH)
Total .275(3134-863)79本 349打点
1990年、投手としてドラフト2位で中日に入団し、1994年に打者に転向。1999年、開幕から21試合連続安打を記録するなど打率.296を記録し、星野監督の2回目のリーグ優勝に貢献しました。
福留孝介(中日)
1999 .284(461-131)16本 *52打点 55四死球 OPS*.810
2006 .351(496-174)31本 104打点 79四死球 OPS1.091(CH)
Total .285(7694-2190)298本 1121打点
プロ1年目の1999年、遊撃手のレギュラーに抜擢され132試合に出場。新人で20勝の上原浩治(巨人)がいたため新人王はなりませんでしたが、打率.284、16本塁打と好成績を残しました。
井端弘和(中日)
2001 .262(531-139)1本 32打点 55四死球 OPS.656
2005 .323(560-181)6本 63打点 78四死球 OPS.817(CH)
Total .281(6803-1912)56本 410打点
プロ3年目の2000年に92試合に出場して、規定打席未到達ながら打率.306を記録すると、翌年は遊撃手のレギュラーに定着して全試合出場を達成。主に二番打者として37犠打を記録しました。
藤本敦士(阪神)
2003 .301(402-121)0本 36打点 28四死球 OPS.719(CH)
Total .251(2463-619)14本 208打点
ドラフト7位指名ながら、当時の野村克也監督の下、1年目は75試合に出場。星野氏が監督就任して2年目の2003年に実力が開花。恐怖の八番打者として初の打率3割を記録し、リーグ優勝に貢献しました。
銀次(楽天)
2012 .280(432-121)4本 45打点 26四死球 OPS.672
2014 .327(459-150)4本 70打点 45四死球 OPS.793(CH)
Total .297(2702-803)18本 314打点
2005年に捕手として楽天に入団するも、2009年に内野手に転向。2010年まで一軍出場はわずか2試合でしたが、星野監督2年目の2012年にレギュラーを獲得し、126試合で打率.280を記録しました。
「大打者」も「名脇役」も「信じて育てる」
星野氏は、監督生活17年間のうち実に11年も中日の監督を務めましたので、「ワシが育てた。」野手も圧倒的に中日の選手が多いです。
それにしても、長年に渡って中日を支え続けた名選手ばかりで驚きます。
星野氏は、立浪や福留など、ドラフトで1位指名が競合するようなスター選手は、思い切って1年目からレギュラーに抜擢しました。
星野氏の辛抱強い起用に応え、彼らもしっかりと結果を残し、のちに名球会入りするほどの「大打者」へと成長していきました。
逆に、彦野、中村、井上など、なかなか出場機会に恵まれずくすぶっていた若手選手にもしっかり目を向け、大胆な起用法で「名脇役」として開花させました。
こうして見ると、なんと10人のうち4人が遊撃手です。(のちにコンバートした選手もいますが…。)
内野の要である遊撃手に若手選手を抜擢するのは非常に勇気がいることだと思いますが、ここに「信じて育てる」という星野流育成術の真髄があるような気がします。
さて、次回は「ワシが育てた。」投手編です。
投手出身で、こと投手に対しては厳しかったことで有名な星野氏ですが、一体どんな投手を育て上げてきたのでしょうか。お楽しみに!
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